同学会の歴史(1898年〜)
一.全学自治会同学会の誕生
1898年 運動会創立
1909年 以文会創立
1913年 学友会創立
運動会と以文会を合併させた学生組織が創立。京大初となる学生組織。
1941年 同学会創立
文部大臣により学友会が同学会に改組される。総長がその長を務める。
1945年 終戦
1946年 同学会改組
官製自治会から、学生自身の自治会へ改組。学生全体の権利を司るものとして、全員加盟制の全学自治会を誕生させる。
1909年 以文会創立
1913年 学友会創立
運動会と以文会を合併させた学生組織が創立。京大初となる学生組織。
1941年 同学会創立
文部大臣により学友会が同学会に改組される。総長がその長を務める。
1945年 終戦
1946年 同学会改組
官製自治会から、学生自身の自治会へ改組。学生全体の権利を司るものとして、全員加盟制の全学自治会を誕生させる。
同学会は1913年に成立した学友会という組織を前身としています。この学友会は運動部の連合体の運動会(1898年)という組織と文化部の連合体の以文会(1909年)という組織が合併してできた学生組織でした。
学友会は戦時体制下において、文部省の指示により、教官が学生の協力の下にこれを指導・管理するための組織として改組され、名称を同学会に改称しました。この時から全学生の加入が明示されるようになりました。この当時の同学会は総長を会長とし、各機関の代表は教官が努めました。
終戦まもない1946年。同学会は、学生を主体とする全学自治会としての同学会に改組されます。同学会を束ねる、中央執行委員長は選挙で選出されました。こうして生まれた全学自治会同学会は学内外の様々な問題に取り組み、京大の学生運動を牽引していく存在となりました。
二.学生の権利を守る自治会としての取り組み(40年代)
1947年 生活危機突破学生大会
1948年 授業料三倍値上げ
同学会はこれに反対する
1949年 京大看護婦事件
学生運動を口実とした、就職差別事件。同学会は抗議闘争を展開。
1948年 授業料三倍値上げ
同学会はこれに反対する
1949年 京大看護婦事件
学生運動を口実とした、就職差別事件。同学会は抗議闘争を展開。
戦後まもなくの同学会は、学生生活を守り、学ぶ権利を自由に保障させるするための取り組みを全力で担います。
同学会改組間もない1947年1月31日、二・一ゼネスト(労働組合による全国一斉ゼネスト)に呼応する形で、生活危機突破全京都学生大会を主催し、学生の権利拡大を決議します。
また、1948年の文部省による授業料三倍値上げ案に対しては、授業料の納付を拒否するなどの抗議行動を展開し全面的に抵抗しました。
この中で、1949年には「京大看護婦事件」が起きます。これは当時の厚生女学部において、在学中学生運動に関わっていた卒業生12人が付属病院を不採用にされた事件です。この事件に対しては、不採用者が二度にわたってハンスト(抗議行動の一つ。抗議の意志を示すために断食するというもの。)で抗議しました。これらの抗議行動に対して、大学当局は徹底した圧殺攻撃を仕掛けます。学生・病院当局の交渉の場には400人にのぼる警察権力が導入されました。
この一連の動きを見て、同額会は、警察導入の翌日、3000人の学生による緊急全学学生大会を開き、学園自治擁護のために闘うという声明を発表します。この事件を契機に、同学会は当局の庇護を離れ、学生の権利を守るための、学生自らの組織として本格的に動き出します。
三.政府・当局による自治破壊と学生による再建(50年代)
1951年 京大天皇事件
昭和天皇の京大訪問に対し、同学会が質問状を出したことを巡って、当局が同学会に解散命令。衆院本法務委員会で同学会委員長が喚問。その後8名に停学処分。
1953年 同学会再建(第一次再建)
当局の妨害を退け、全学ストから代議員会を成立させる。
1955年 第二次滝川事件
総長との交渉を契機に警官隊を導入。同学会に解散命令。
1956年 同学会再建準備会発足
1959年 同学会再建(第二次再建)
当局の妨害退け、3600票の得票により、代議員会を成立させ再建。
昭和天皇の京大訪問に対し、同学会が質問状を出したことを巡って、当局が同学会に解散命令。衆院本法務委員会で同学会委員長が喚問。その後8名に停学処分。
1953年 同学会再建(第一次再建)
当局の妨害を退け、全学ストから代議員会を成立させる。
1955年 第二次滝川事件
総長との交渉を契機に警官隊を導入。同学会に解散命令。
1956年 同学会再建準備会発足
1959年 同学会再建(第二次再建)
当局の妨害退け、3600票の得票により、代議員会を成立させ再建。
動き出した同学会を襲ったのは、一言で言えば、政府や当局による学生自治会破壊の攻撃でした。50年代は、これとの対決が軸になります。
1950年6月初旬、当時の吉田首相によるレッド・パージ(思想弾圧)の嵐が吹き荒れました。9月に当時の天野文相が「10月にアカ追放の措置にとりかかることになろう」と発言し、大学においてレッド・パージを行う国の方針が明るみに出ます。この発言に対して、同学会はストを含む実力行使の決意を固め、決起大会を開くことを決定しました。これらの動きを察知した京大当局は、「告示第九号」を出しスト禁止を打ち出しますが、同学会はあくまで学生の立場を貫いて、学生1000人以上を集めて決起大会を開き「レッド・パージ粉砕」「告示撤回要求」を決議しました。当局はこの中で学生4人を処分します。
これ以降、政府は学生運動への取り締まりを強化し始めます。1951年に「京大天皇事件」が起きました。これは昭和天皇の京大来学時に、新聞社の宣伝カーが「君が代」を流し始めたとき、学生約2000人が「平和の歌」を合唱した事件で、この事件を、大学当局は「大学に対する社会の信頼を裏切るもの」としました。そして、「告示十三、十四号」により同学会解散命令を下し、同学会委員長を含む8人の学生を無期停学処分にします。
この当局による同学会弾圧は、学内に強い反感を呼び、解散反対の署名は2700筆にも昇りました。当時の宇治分校も同学会解散および委員の処分反対の決議を挙げています。その後、各学部自治会の代表者で同学会再建準備会の結成が申し入れられましたが、学長はあくまでこれを拒否。しかし、学生はへこたれることなく運動を展開し、当局の許可をまたずに実力再建しようという動きが盛んになります。そしてついに、1953年1月、当局も同学会再建準備会を認めざるをえなくなりました。
同年6月に行った全学学生投票では再建賛成に4500票以上(全学生の6割以上)が入ったため、代議員選挙を行うことができ、代議員会により再建宣言が発せら、晴れて同学会は再建を果たします。また、再建同学会は全学連への加盟を決議します
しかし、その二年後またもや同学会は存続の危機に立たされます。1955年の「第二次滝川事件」です。これは、当時の滝川総長に対し同学会が創立記念祭の開催を求めており、その実施方法をめぐる両者の協議が決裂、直後再交渉を学生が求める中で、大学当局によって警官隊が導入された事件です。大学当局は同学会解散を命じ、この中で2人の学生が逮捕・起訴されました。
学生側は、この弾圧もはねのけ自治会再建を再度行います。1958年になって、同学会の再建運動が活発化し、再建準備会は代議員選挙の公示を行いましたが、大学当局は「告示第七号」によって選挙を禁止しました。しかし、再建準備会はあくまで選挙を強行し、3600票を集めます。大学当局は「告示第八号、第九号」を提示し、トップ当選した北小路敏を含む9人の学生の不定期停学処分と同学会解散を発表して、選挙を潰そうとします。この弾圧も、宇治分校の学生らがハンストを行う中で、処分を解除させます。これらの運動の高まりの中で、1959年5月にようやく大学当局に同学会の再建を認めさせます。5月には同学会再建規約の信任投票があり、約4900人が投票し、4000人を超す賛成票をもって、再建が決まりました。同年6月に代議員選挙が行われ、全学生の半数以上が投票し、代議員会の場で、同学会再建宣言が発せられました。
四.同学会の政治的先鋭化と執行部の腐敗(60年代)
1960年 全学大会
同学会、大学院会、職員組合、生協、教官有志による史上初めての全学大会。国会の解散要求と、無期限スト態勢に突入。
1962年 大学当局が学生9名に処分
1965年 執行部体制の変更
共産同系から日本共産党(民青)執行部へ。他自治会との軋轢が深まる。
同学会、大学院会、職員組合、生協、教官有志による史上初めての全学大会。国会の解散要求と、無期限スト態勢に突入。
1962年 大学当局が学生9名に処分
1965年 執行部体制の変更
共産同系から日本共産党(民青)執行部へ。他自治会との軋轢が深まる。
50年代に政府や大学当局と何度も交渉するなかで、同学会は大学を大きなの流れの中で、捉え行動するようになります。当時の同学会にはそれだけの社会的影響力があり、それゆえに60年代に入ると政治党派による不当な支配との対決を余儀なくされます。1960年4月26日、全学連の統一行動として安保粉砕のゼネストが行われ、京大では吉田分校、文学部、理学部がストに入り、同学会は時計台前で集会を行いました。さらに、同学会は、全学学生大会でストを決議し、5月19日からストに入りました。そしてついに、5月26日には、史上初の同学会、大学院会、職員組合、生協、教官有志による全学大会を開き、「日本の将来は国民の意思により決められるべきである。そのために即時国会の解散を要求する」という大会宣言を発し、6月全学無期限ストが準備されます。同学会の影響力は当局も含めた京大全体を揺るがしました。
政府はこれらの動きをなんとしても止めるための法整備を進めます。1961年には政治的暴力行為防止法案が国会に上程され、1962年には大学管理法案が提出されます。同学会は、これらにたいする反対運動を精力的に取り組みます。1962年の大学管理法案に対しては、12月に大管法反対の全学ストを行い、この中で大学当局は、同学会の3ヶ月の活動停止と学生9人の停学処分を発表しました。
しかし、ここから政治党派の介入が始まります。1965年の代議員選挙で、日本共産党-民青同盟が多数派を取ると、同学会は選挙応援に利用され、執行部は学内の自治運動に意識的に敵対するようになります。その象徴的な出来事として、1969年の京大闘争(寮闘争)において、学生部封鎖を行う寮闘争委・教養部闘争委を「同学会行動隊」が襲撃するという事件が発生します。
五.執行部リコールと同学会再建(70年代)
1970年 全学学生大会
1707名の署名によって開催。安保粉砕の全学スト決議を議決。同学会中執は最後まで敵対し、学生の信頼をなくす。
1972年 同学会再建(第三次)
再三にわたる学生無視の同学会運営に対し、学生大会が開かれ執行部リコールを決議。代議員会を経て、同学会が再建される。
1973年 竹本処分闘争
経済学部助手の竹本氏に対する、政治的処分に同学会は抗議。総長が抗議集会に機動隊を導入させ、矢島委員長は全国に指名手配にされる。
1975年 矢島委員長に有罪判決
1979年 入学式展開の禁止
同学会が入学式に開場で行っていた情宣活動その他を、当局が一方的に禁止した事件。
当時同学会は熊取原発闘争を展開。 実験用原子炉での放射性物質漏洩に対する責任追及運動であった。
1707名の署名によって開催。安保粉砕の全学スト決議を議決。同学会中執は最後まで敵対し、学生の信頼をなくす。
1972年 同学会再建(第三次)
再三にわたる学生無視の同学会運営に対し、学生大会が開かれ執行部リコールを決議。代議員会を経て、同学会が再建される。
1973年 竹本処分闘争
経済学部助手の竹本氏に対する、政治的処分に同学会は抗議。総長が抗議集会に機動隊を導入させ、矢島委員長は全国に指名手配にされる。
1975年 矢島委員長に有罪判決
1979年 入学式展開の禁止
同学会が入学式に開場で行っていた情宣活動その他を、当局が一方的に禁止した事件。
当時同学会は熊取原発闘争を展開。 実験用原子炉での放射性物質漏洩に対する責任追及運動であった。
70年代の同学会が直面した課題は、政治党派による腐敗せる執行部をいかにして変革し、民主的な同学会を再度打ち立てるのかという課題でした。1970年6月。1707名の署名によって史上4度目の全学学生大会が開かれます。民青系の執行部はこれに最後まで敵対します。
同年末には、選挙を行わず執行部を僭称していた民青系執行部が突如選挙をでっちあげ、一週間足らずで締切り、当選したと発表する事件がおこります。また、1972年には民青系執行部が代議員会を十分に周知せずに強行し、同学会の私物化を続けます。
ここに来て、学生の怒りは臨界点に達します。そして、ついに1972年11月29日。2976名の出席により全学学生大会が勝ち取られ、賛成2588名によって民青執行部のリコールが決議されました。12月の代議員会で八島久男(非民青系)が新委員長として選出され、同学会が真に学生の自治会として再建されました。一部の学生による同学会の私物化を粉砕した歴史は快挙と言えます。
しかし、再建を果たした同学会が大学問題を取り組むや否や、またもや政府と大学当局による自治会潰しが始まります。
1973年2月には経済学部助手の竹本氏に対する政治処分に反対する抗議集会に、総長は機動隊の導入を指示します。さらに、その翌々日には、再び機動隊を導入し、自治会室などの不当捜査が行われます。同時に京都府警は同学会委員長八島を「窃盗、暴力行為」というでっちあげの容疑で全国に指名手配しました。同学会は抗議声明を発表し、弾劾集会を開催し、これらの自治破壊に抗議しますが、同年11月7日の総長団交では再び総長によって機動隊導入がなされ、学生1名が不当逮捕されるという事態にまで発展します。
同学会は不当な思想弾圧に対して断固反対で闘いました。そして、1976年12月、竹本処分完全粉砕へ向けた総長団交を行い、翌年6月にはストを行います。この中で、1978年10月に同学会中執のS君が山城高校において教育実習を拒否されるという事件が起こりました。同学会は抗議活動を直ちに開始しますが、これに敵対したのがまたもや民青系学生でした。
同学会執行部を中心とした不屈の闘争により、7月にはS君の教育実習を勝ち取りましたが、同学会はこれらの過程で、自治会運動としては大幅な後退を強いられることになります。
六.長き停滞と同学会再建運動の開始(80年代~現在)
80年代に入ると、京大学生運動の中心は寮自治会や学部自治会になっていきます。同学会は立看規制や日の丸掲揚に抗議していますが、全京大生と一体となった活動は下火になっていきます。京大新聞を見ても同学会選挙が報じられなくなり、運営がどうなっていたのかはまるでよくわかりません。その後、90年代から現在まで選挙の記録はありませんが、同学会を名乗る学生団体が度々現れます。このことから、かつての民青系同学会のように一部の政治的学生による私物化が起きていたと考えることはできます。また、全学の信任を得た執行部ではないので、同学会を名乗る資格があったかすら甚だ疑問です。この中で近年、再度、全学自治会としての同学会の再建運動が始まります。2012年5月、中央執行委員長冨山小太郎(当時)らが同学会の実体的再建を目指し、当時同学会を名乗っていた学生と一緒に、当局に結成願いを提出し、受理されます。そして同年6月、20年ぶりと言われる全学選挙を行い、3042票の投票と2149票の信任を得て、新執行部を樹立し、8月代議員会を経て本格的に運動が展開され始めています。これに対し当局は「告示第五号」で選挙を認めないことを宣言し、当時同学会を名乗っていた学生がこれに呼応するかたちで、現在、同学会運動に敵対しています。
→ 同学会の再建過程(2012年)
以上で、歴史の概略は終わります。同学会の歴史は闘争の歴史です。同学会は幾度となく迎えた危機を、学生自身の手で解決し、自治を維持してきました。次の歴史を紡ぐのは私たち現在の京大生です。共に同学会を発展させていきましょう。
90年代について記録には残ってないですが。少しコメント。確か83年5月にA自で学大成立A自スト、三里塚闘争の3・8分裂をめぐる評価で、学内の自治会が二分され、その後、86年吉田寮在期反対の教養部代議員大会の準備過程で革マルの襲撃をうけ、87年、88年に続き90年に熊野寮生を中心に呼び掛けられ、教養部代議員大会を400名強の結集で開催し、惜しくも定足数に足らず、不成立になり教養部自治会の再建がなされませんでした。同年11月、即位の礼反対の全学学大が呼び掛けられ、少数のため成立せず、結果全学バリストが行われました。その後91年の教養部廃止・総合人間学部の開始になり、学内自治の焦点が教養部から、内部対立を抱えながら、各学部自治会と寮自治会、全学自治会同学会となった。その後当時の同学会中執の学生を中心に97年総長団交の先取され、全学的な陣形で団交が、勝ち取られました。
返信削除まあ、私物化と言えば私物化なんですが。